
タスマニア ポートアーサー(2) TASMANIA Port Arthur 2

ポートアーサー監獄跡
Port Arthur Histric Site
ポートアーサーは、1830年に重い罪や、再び罪を犯したものが送られる「監獄の中の監獄」として作られた。1840年までに、2000人もの囚人と職員がこの地で生活し、船やボート、材木、洋服、靴、家具、野菜など数多くの物を作り出していた。そのため、ここはひとつの町であり、現在も当時の教会や病院、総督の住まいなどが残されている。
囚人の輸送は1853年に中止され、この監獄は1877年に閉鎖されたが、ここで刑に服した囚人は、のべ12000人にもなった。その後、多くの建物が取り壊されたり、火事で焼失し、1884年には、監獄のイメージを追い払うために、ポートアーサーという名前もCarnarvonに変えられた。
1927年、いくつかの建物がホテルやゲストハウスとして再建され、観光のためにポートアーサーという名前も復活した。政府も、その歴史的価値を認めだし、1970年にナショナルパーク・ワイルドライフ・サービスの手に、すべての遺跡が委託され、1987年からHistric
Site (歴史的建造物)として管理、保護されている。
今回のタスマニア旅行の中で、1番下調べをしておくべきだったと後悔したのは、このポートアーサーだった。手元にあったガイドブックには、監獄の跡があると書いてあるだけで、どれだけの規模なのか、どのようなところなのか、イメージがつかめなかった。後で触れるポートアーサー事件についても、銃で多くの人が殺されたということは知っていたが、ちょっと勘違いもあり、このヒストリックサイトの中だと思わず、町にあるカフェで起こった事件だと思い込んでいた。
ここが、それほど広いところと思っていなかった私たちは、夜の「ゴーストツアー」がメインだと考えて、到着したのは4時少し前だった。ゲートを通ってから駐車場までもちょっとあり、一瞬どこに停めていいのだろうと悩んだほどだ。駐車場の前にビジターセンターがある。インフォーメーションカウンターで、ゴーストツアーの予約を入れてあることを告げ、チケットを買おうとすると、もう4時なので、子供たちは無料、大人も10ドルとのことだった。ゴーストツアーはファミリーチケットで38.4ドル。
カウンターは建物の2階部分にあり、売店、カフェ、レストランが併設されている。その1階が、当時の囚人たちの生活や様子をあらわした博物館になっていて、ちょっと子供だましのようなところもあるが、面白かった。チケットは、ここで売られているトランプのカードで、そのカードの種類で、自分がどの囚人を割り当てられたががわかる。まず、入ったところに裁判官の人形がいて、カードの番号を押すと、「〜の罪を犯したために、懲役〜年」と宣告してくれる!そして、展示されているどこかに、自分の人形がいるのだ。私は、窃盗の罪を犯した、まだ18歳の少年だった。
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足かせをはめられ囚人になったり、看守になったりと忙しい万里・・・
1番上の写真が、当時のメインの監獄で、その回りに総督の屋敷(これは今も残っている)やオフィス、病院などがあった。監獄は焼け落ちて廃墟となっている。でもこれだけ壊れていると、天井もなく明るいので、監獄というイメージよりも、古いお城のような感じがした。
囚人たちの生活は規律正しく、厳しかった。11月から2月までの夏の時期は、朝5時半に起床のベルがなり、午後6時まで食事の休憩以外はずっと作業をしていた。冬場は、朝7時から午後4時半まで少し楽だった。1日の食事の量は、肉・250g、芋・375g、スープ・600ml、パン・125gで、重労働をする囚人たちにとっては、やはり少ない食事の量だったようだ。
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独房のほうの建物は、まだ当時のまま残っている部分が多い。真中に小さなホールがあり、東西北側に鉄製の頑丈な扉があり(写真左下)、その奥の廊下の左右に小さな独房が並んでいる。ここは薄暗くて、やはり気味が悪い。私が写真を撮っていると、この奥に入っていった亜希とスーザンが、急に大声をあげて走って戻ってきた。
「部屋の中になんかいる!!!」
二人とも、顔色が変わっている。私が、確かめに見に行ってみると、薄暗い部屋に人形が立っていた。他の独房にはないので、いきなりこれだけを見たら、確かにびっくりするだろう。でも私は、メルボルン、リッチモンドについで、もう3箇所目の監獄なので、さすがに慣れてしまった。監獄跡を見るのが好きな私は、悪趣味なのだろうか!?
南側には階段があり、それを上っていくと小さなチャペルだった(写真右下)。独房に入れられた囚人たちは、一切口をきくことは許されない。看守たちも、ベルの音と手を鳴らすことで囚人たちに指図する。1日1時間だけ狭く区切られた庭で簡単な運動をし、週3回から5回は、このチャペルの礼拝に参加する。しかし、独房を出るときは、必ず目の穴だけが開いたマスクをかぶり、誰かわからないようになっていた。ただし、礼拝を受けるときには、そのマスクを取るために、ひとつひとつの席(といっても座れない)は木の壁でさえぎられ、牧師だけが囚人の顔を見ることができた。
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Historic Ghost Tour
「おもしろいから絶対行ったほうがいいですよ」と二人の友人から勧められ、ホラームービーの好きな私は、とても楽しみにしていた。シーズン中にはいっぱいになることもあると言われ、ちゃんと予約も入れた。これは日が沈んで真っ暗になったヒストリックサイトを、ランタンを持ったガイドといっしょに見て歩くというもの。その場所ごとにガイドは「ここでは数年前、こんな幽霊が出た」という話をしてくれる。
私たちは、6時半の出発前に、ひととおりヒストリックサイトの見学を終え、少し休憩をして参加したものの、やはりかなり疲れていた。ガイドは少し年配のおじさんで、ちょっと癖のある英語のために、聞き取りにくい。しかも英語というのは、体が疲れてくると、頭に入りにくいのだ。90分間もの間、歩いては止まり、寒い中で説明を聞きということを繰り返していくうちに、さすがに頭が拒否反応を示しだし、最後の30分ほどは、もうどうでもよくなってきて、話がわからないと怖さも感じず、ひたすら早く終わってほしいと思っていた。
こわがりの子供たちは、もっと悲惨で、最初から「なんでこんなことをしなきゃいけないの!」と文句を言っている。彼女たちも、まったく英語がわからなければ、説明を聞いて怖がる必要はないのだが、さすがにオーストラリア生活も2年になろうとしていると、かなりの単語が聞き取れてわかってしまう。でも100%わかるわけでもないので、わからない部分を想像して、もっと怖くなるようだ。
終わった後に、二人に「説明聞いてた?」と尋ねると、亜希は、「頭の中でずっと浜あゆの歌流してたけど、それでも聞こえてくんねんもん。」と泣きそうな声で答えた。
ゴーストツアーを終えるともう8時。ポートアーサーのあたりはレストランの数も限られ、そのほとんどが夜9時までなので、予約を入れていかないと、食いっばぐれることになる。私たちはB&Bの奥さんが予約を入れてくれた、ビジターセンター内のレストランで食事をした。ここは2001年のツーリズム賞も受け、おいしいと評判らしい。
スーザンと私はSea Food Platter(盛り合わせ)を頼み、子供たちには子供用メニューからパスタを頼んだ。でも私たちのお皿からかなりの量が二人の口に入ったのだが・・・。これには山盛りのサラダか温野菜もついているので、私たちは本当におなかがいっぱいになってしまった。残念ながら牡蠣は生ではなく、エスカルゴのようにグリルしたものだったが、スモークサーモンは本当にとろけるようにおいしかった。ムール貝も子供たちが、あまり好きでないために、日ごろはあまり買えないが、ワイン風味に蒸し焼きをされた一品に大満足!
Port Arthur Historic Site open daily 9:00am−5:00pm (クリスマスを除く)
ph 1800 659 101 fax 1800 659 202
e-mail: booking@portarthur.org.au
website: www.portarthur.org.au
大人 22ドル 子供 10ドル 家族 48ドル (2日間有効)

ポートアーサー事件
タスマニアから帰ってきて、 もって帰ったパンフレットを読んでいるうちに、自分の勘違いに気がついた。オーストラリアの歴史の中でも最悪といわれるポートアーサー事件は、このヒストリックサイト内で起こった事件だったのだ。その事件以後、ここを訪れた多くの人が、その事件について、ここで働く人たちに質問を投げかけた。でも、仲間も失ったスタッフたちは、説明することも苦痛で、そのために簡単なパンフレットを用意したそうだ。私は、この事件を少し調べ、ポートアーサーのインフォーメーションにメールを出して、そのパンフレットを送ってもらった。以下は、パンフレットや、ネットなどで検索して得た事実から、書いてある。
1996年4月28日、日曜日。ポートアーサーには、週末ということもあって、州の内外から多くの観光客が集まっていた。午後1時半、監獄跡を正面に臨むブロードアローカフェ(上の写真で、右中央に見える白い建物の左側にあった)は、遅いランチをとる人や、軽くお茶を楽しむ人々でにぎわっていた。そこから数十メートル離れた駐車場に止めた黄色いボルボから、ブロンドで長髪の若い男が出てきて、カフェの外のテーブルで食事をした。彼は、「今日はJAP(日本人)がいないな。WASP(白人)ばかりだ」というと、スポーツバッグを持って立ち上がり、店内へと入っていった。 店内に入った男は、スポーツバッグからAR15セミオートマチックマシンガンを取り出し、近くにいた4人に向けて発砲した。その90秒の間に、20人の死者と、12人の負傷者が出た。男は駐車場へと向かい、そこで観光バスの運転手や乗客を射殺し、車をゲートに向かって走らせ始めた。途中、2人の子供を連れた母子も射殺し、ヒストリックサイトから200mほど離れたガソリンスタンドでカップルを襲い、女性を射殺し、男性をトランクに押し込み、Seascape Guest House という老夫婦の経営するコッテージに車をとめ、男性を引きずり出して車に火を放った。 午後2時20分頃、地元のテレビ局のレポーターが、情報収集のために偶然かけたコッテージの電話に、奇妙な男の声が響き、異常を察したレポーターが警察に通報した。夕方までに州の内外から200人以上の警察官が集まり取り囲んだが、コッテージは回りに何もない広い庭の中で、管理人夫妻は銃のコレクターで、コッテージ内にも銃器があることがわかり、人質の情報もつかめないまま、警察は手を出すことができなかった。 翌日午前8時、ゲストハウスから煙が上がり、建物は一気に燃え始めた。男は衣服を燃やしながら飛び出してきたところを警察の手によって取り押さえられた。その後焼け跡からは、ゲストハウスのオーナー夫婦と、トランクに閉じこめられていた男性の死体が発見されたが、実はオーナー夫妻は男の知り合いで、ヒストリックサイトへ行く前に立ち寄り、殺されていたことがわかった。トランクに閉じ込められた男性も、早い段階で殺されていた。 最終的な死者は35人、負傷者は15人と単独犯による事件としては史上最悪のものとなった。犯人は、ホバートに住む28歳のマーティン・ブライアントという青年で、犯罪暦はないものの、小さいころから「変わり者」として知られていた。彼はIQが平均より20-30ポイントほど低く、小学校時代は特殊学級で学んだが、精神鑑定では多少社会性もあり、責任能力もあると判断された。その年の11月26日、仮釈放なしの終身刑を宣告され(オーストラリアに死刑制度はない)、2000年2月に刑務所内で自殺を図ったが、一命をとりとめている。 事件後、マーティン・ブライアントがAR-15ライフル(軍用の自動小銃をセミオートに改造した民間向け)を、申請書の記入や審査もなしに購入していたことに非難が集中した。タスマニアは他州よりも銃規制が甘く、軍用ライフルでも無許可で購入することが出来た。しかも犯罪暦のない人間は、オーストラリアのどこでも簡単に銃を購入することができたのだ。この事件を機に、銃規制の見直しが議論され、事件の12日後、ハワード首相は、ミリタリータイプのセミオートライフルの輸入と販売の禁止を決定した。 |
事件の概要を知って、私は何ともいえない重苦しい気持ちになった。日本でも、この数年間に、何の罪もない人たちが殺される事件が起きている。そのたびに、行き場のない怒りとやるせない気持ちが湧き上がってくる。
このポートアーサー事件については、本もでているようだが、私が調べた限りでは、動機についてははっきりされていなかった。犯人は、知的障害者として年金も受けていた人物で、自白の強要があったとアムネスティは抗議しているそうだ。しかも、彼が無実だという本を書いている人物もいて、銃規制に反対するガンロビーだと言われているそうだ。
事件から6年を経た今も、愛する人を失った悲しみで苦しんでいる人は多いだろう。ヒストリックサイトで働き続けている人たちやその場に居合わせた人たちはは、その事件を思い出さない日はないかもしれない。でも、この事件をきっかけに、オーストラリアでの銃規制が厳しくなったことだけは、この国の大きな一歩であったと思う。
サイト内にあるメモリアルガーデンで、亡くなった方たちへの祈りを捧げてこなかったことを、とても後悔しているが、今あらためて、犠牲者のご冥福を祈りたい。
(リッチモンド・ポートアーサー) (ポートアーサー3)
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