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クッカバラ通信

 

 クッカバラ通信 2002
                                                                 

クッカバラはワライカワセミという鳥でオリンピックのマスコット・オリーのモデルです。
笑っているような鳴き声で元気をくれます。

教員の能力

 今回もYahooのニュースからのトピックになるが、「<習熟度別研修>教員を能力別に3段階で 都教育委員会」というものだ。昨年の11月にも、都教育委員会主催の教員研修が大手予備校の代々木ゼミナールで開かれたという記事を読んで、その疑問を「クッカバラ通信」の中に書いた。今回も、挙げられている目標の「教員の力量に応じたきめ細やかな研修を実施する」という点には、おおいに賛成したいが、校長ら管理職が各教員の能力を判定して振り分けるという点は、疑問が残る。

 そもそも教員の能力というのは、何をもって判断するのだろうか。予備校であれば、担当する生徒たちの試験の成績や入試の結果が、その教師の能力と判断するのは、ある程度正しいと思う。試験の成績を上げるために、入試に合格するために、生徒たちは予備校に通っているのだから。でも、公立小中高校の子供たちは、試験の成績のためだけに学校に通っているのではない。特に、義務教育である小中学校の教師の能力基準とは、何で判断されるのだろう。

 小中学校とはいえ、学校間格差はかなり大きい。小学校で、学級崩壊が話題になったのは、もうずいぶん前のことで、「困難校」とされる小学校と、「落ち着いている」小学校では、教師の負担や仕事の内容も、かなり変わってくるのだ。学級崩壊に陥るのは、その担任教師の問題だけではなく、多くの原因が絡まって、そうなってしまう。教師個人というよりも、学校全体、家庭や地域を含んでの問題だと思う。その中で、どうやって校長ら管理職が、各教員の能力を判定できるというのだろうか。

 私も、「進学校」と「困難校」のどちらでも教えた経験がある。私の肩書きは公立高校の英語教師として変わらないのに、仕事内容は、その二つの学校でかなり違うものだった。やはり「進学校」では、教科指導が中心となり、自己の研修も教科中心のもので、かなりの時間を教科に関連することに費やしてきた。でも「困難校」では、1日の労働時間の2/3以上が、生徒指導や、クラス運営を含めて生徒に関わることに使われるのだ。その中では、私の英語という教科に対する指導力よりも、他の面が重視される。

 私自身は、教科指導中心で、英語教師という面が強調された時期よりも、生徒たちとの関わりに膨大な時間と労力をかけた時期のほうが、教師としての面白さと責任を感じる。そしてその二つの1番の違いは、英語教師が前面に出る限り、それは個人プレー中心であり、生徒たちに関わる仕事は、他の同僚たちとの連携プレーが必要とされる点だ。勉強などしたくない生徒たちに、いかに学校を魅力的な場所にさせるかは、その学校の教師が協力して生徒たちに対峙していけるかにかかっている。もし生徒たちが、学校に魅力を感じてくれたら、それは一人の教師の評価ではなく、学校全体への評価なのだ。

 そのニュースには以下のように記されていた。
 「管理職が人事考課の中で教員を評価し、「上」「中」「下」の三つのランクに分ける。さらに教職経験2〜10年の若手、11〜20年の中堅、21年以上のベテランに分け、研修所などで用意された複数の研修メニューから、管理職が個人にふさわしい研修プログラムを作り、受講させる。
 ベテランでも、児童生徒の学習指導に問題がある場合は基礎的なプログラムを課し、逆に優秀と評価された教員は大学院の講座を受講したり、将来の学校のリーダーになるための研修を受けさせる。研修後は、現場で研修の成果が生かされているかどうかを管理職が評価し、この結果も人事考課に反映させるという。」

 管理職はどんな基準で教員を「上」「中」「下」とランク付けできるのか。一人の教師を、朝から晩まで観察しつづけるとでもいうのか。しかも、教師の仕事は、一人でやるものもあれば、何人かで協力してやるものも多いのだ。
 小学校の子供たちが、一日中おとなしく授業を聞いていれば、それでその教師に指導力があるといえるのか。高校で、大学合格者が増えたからといって、それはたまたま塾や予備校に通っている生徒が多かったためではないのか。

 私も今まで何度か教育委員会の研修に参加したことがある。もちろん役に立つものもあったが、概して机上の論理的なもので、低学力校で教える教師には、無縁のものが多かった。しかも、研修に行くためには、週1回午後の授業が入らない日を作ってもらわねばならず、その日は、他の仕事の当番もはずしてもらわなければならない。たとえば、最後に勤めていた学校では、私が生徒指導担当ということもあったが、週に2回は8時15分から校門のところに立って、登校してくる子供たちに声をかける。朝のホームルームがないために、始業時間の8時40分に飛び込んでくる生徒が多く、ロッカーのあたりでだらだらたむろしている子供たちに、「早く教室に行って」と叫び続けるのだ。昼休みにも、校内巡回と校門の立ち番の仕事を、全職員で当番制にしている。そういえば、授業中も、喫煙防止のトイレ巡回もやっていたはずだ。放課後も、体育系クラブの先生方は指導に忙しく、そうでなくても、 会議や他の仕事に追われている。学校の近所から、生徒たちの喫煙の通報や、スーパーから万引きの連絡が入り、迎えに行かなければならないこともよくある。

 本題から少しはずれてしまったが、このような私たちの仕事を、どうやって管理職がランク付けできるというのか。困難校であればあるほど、管理職もその大変さも理解しているはずで、教師をランク付けすることは難しさもわかっているだろう。ランク付けによって、管理職と教師の関係、教師同士の関係にも、影響が出てくるに違いない。大変な学校こそ、全教職員が協力して生徒たちに対応していかねばならないのに、その基盤を崩すようなことになりかねない。そして何よりも、私たち教師が評価されるべき相手は、管理職ではなく、子供たちであるはずだ。実際、無記名のアンケートなどで、子供たちの声をすくい上げようと努力している学校も多い。

 都教委は「教員の資質が向上し、子供や保護者の期待に応えられるはずだ」と話したそうだが、一クラス40人もいて、一人一人に目が行き届かない学校で、子供たちの本当の期待は何かということを、わかっているのだろうか。今の子供たちは、「自分を見てほしい、話をきいてほしい」と心の底で叫んでいることが多いのに、それを声に出せずにいる。私たち教師が、今本当に必要としているのは、上から押し付けられた研修ではなく、問題を抱えた子供たちとじっくり話す時間なのだ。

2002年11月3日

 

長期研修休業制度を考える

 昨夜Yahooのニュースで、少しショッキングなものを見つけた。といっても、殺人事件などではなく、今の私の立場上ショックだったというだけだ。記事のタイトルは、研修休業中、豪でうどん店経営の中学教諭を懲戒処分」というもので、タイトルどおり、神戸市所属の教諭が、長期研修休業制度を利用して、語学と専門分野の理論を学ぶために渡豪したにもかかわらず、語学学校にまったく行かず、ゴールドコーストでうどん屋を開業していたというものだった。

 事情を聞くために帰国させられ事実を認めたために、停職3ヶ月の懲戒処分をうけたが、その日に依願退職したそうだ。ゴールドコーストの店は、かなり繁盛していて、観光客向けのPR誌にも紹介されたそうなので、教師を辞めてそのままゴールドコーストで店を続けていくほうが、本人にとっては望ましいのかもしれない。でも、私も含めて、同じように研修制度を利用している教師たちにとって、この人がやったことは、やはり許せない気持ちだと思う。何かにつけ公務員は、その言動を厳しく監視され非難の対象になることが多いが、実際、非難されても仕方のない人間がたくさんいるからでもある。でも、その反面、仕事に全力を尽くし、努力を続けている人もいるのだ。もちろんこれはどの世界でも同じだろう。

 そのうどん屋の道を選んだ人に同情したり弁護する気はさらさらないが、この長期研修休業制度が持つ問題点のために起こった事件でもあると思う。大阪府は、国に先駆けてこの制度を2000年4月に発足させた。文部省が、同様の趣旨を打ち出したのは翌年なので、多くの都道府県は2001年から制度を発足させているのだと思う。ただ、私はすでにオーストラリアにいて、日本の情報も正確につかめていないので、ネットのニュースや個人的に得た情報だけで書いているために、少し正確ではないかもしれない。

 最初に大阪府がこの制度を発表したとき、3年間が最長期間で、その間はまったくの無給であるということだった。ただ身分保障はされるので、研修終了後は、そのまま現職に復帰できる。この不景気な社会で、3年間も休職したあとに仕事が保証されているというだけでも、民間に比べるとありがたい話なのかもしれない。でも、その間はまったくの無給になるだけでなく、共済・互助組合などの厚生年金の掛け金は納めなければならず、私は毎月5万円ほどのお金を払いつづけている。

 私の研修が決まったとき、女性の同僚は「ぜひ私もチャレンジしたい」という意見が多かったのだが、男性は「やってみたいけど、給料なくなったら生活できないからなあ」という人がほとんどだった。これは、男性はやはり「家族を養っている」という意識が大きいのに対し、共働きの女性は「夫の給料だけでも何とかなる」と思うせいではないだろうか。つまり、金銭上の負担が、この研修制度の1番の難点なのだ。ただ大阪府では、研修制度が始まる1ヶ月前に、互助組合が「必要経費 」として、月々6万5千円までは、事後精算で支払うと決めた。私も帰国後、大学の授業料だけでも軽く年間78万円を超えるので、その分は返ってくるはずだ。

 給料をもらっていないために、研修期間中の報告義務もまったくない。これが、第2の問題点だ。しかも、研修先として自分の好きなところを選べる。私は英語教師なので、英語教授法のマスターを取ることを、第1の目的としたが、海外に出ているのは、英語教師ばかりではない。事件を起こした人のように、語学学校が研修先でも認められるのだと思う。おそらく文部省がこの制度を奨励したあと、全国で実施されるようになったものの、助成金などがでるわけでなく、それどころか30代以上の「教諭職」にある人間を数年間無給にして、その間、給料の少ない「講師」を雇えば、その自治体にとって節約になり、しかも若い講師を入れることで、現場の活性化も図れるわけだ。

 結局、この制度は、その個人に完全に任されている。きっちりとした目標を持って臨めば、有意義な結果を得られるだろうが、もし「怠け心」を起こして、海外で遊んでいても誰にもばれないはずだ。私も、最初の研修計画に書いたウーロンゴン大学のMaster in TESOLは、予定より1年半早く終えてしまい、急遽、次の目標を今のメルボルン大学のMaster of CALLと決めて、昨年1時帰国した際に、新たな研修計画を出した。大阪府教委に電話をすると、「予定より早く終わる例はなかったので、計画書を早く出してもらわないと、最悪の場合、研修期間はそこまでということになるかもしれませんよ。」と脅かされた。これを聞いたときは、もし何も報告しなければ、わからないままに3年間が過ぎたはずなので、黙っていればよかったと思ったのだ。でも、お役所は、単に様式を整えればOKなので、あらためて計画書や資料を提出するだけで終わったが。

 私が大学のクラスメートに「研修制度で来ている」と話すと、誰もが援助金が出ていると考える。韓国の公務員だという友人も、給料の1/2は保証されていると言っていた。今、私がメルボルン大学に支払っている授業料は年間15,000ドルで、100万円を超える。やはり、研修と名のつく以上、その費用の1部は、負担されるべきではないだろうか。たとえわずかでも負担されていれば、当然、研修者にも報告の義務が出るし、もし研修成果が出ていないのなら(つまり単位を落とすようなことがあれば)、研修期間を打ち切られても仕方がないと思う。

 私は大阪府の研修制度の1期生としてオーストラリアの大学院で学ぶチャンスを得た。その年は全体数も多くなかったし、海外に出た人間も限られていると思う。来年4月には、現場に復帰し、私はここで学んだことを現場に生かせるはずだと信じている。時々、「同じように研修制度を利用してオーストラリアに行きます」というメールが入ってくる。全国で、同じ制度が始まり、向学心に燃えた教師が海外に出て行けるのは、本当にすばらしいことだと思う。でも、やはりここに述べた問題点は、文部省も、都道府県の教育委員会も考えるべき点で、私は、帰国後、ぜひ経験者の声を集めて、改善の要求を出したいと考えている。そして、もっと多くの教師が、自己研鑽の時間を持て、子供たちにそれを反映できることを願っている。

2002年10月26日

 

子連れ留学に車は必要?

 私は、メカは弱いけれど、車の運転は大好きだ。父が仕事で使っていたため、物心がついたときには、すでに車に乗っていたからかもしれない。母は、若いころに免許を取るチャンスがなかったからと言って、私には10代で免許をとることを勧めてくれた。以来、車のない生活をしたことはない。
  若葉マークのころからいつでも乗れる車があったため、運転をしない日が1週間も続くことは、日本にいる限りほとんどなかった。妊娠中もずっと乗っていたし、出産直後もすぐに乗りだした。確か次女の退院の時は、誰も迎えに来てもらえず、朝、父が車とカギを置いていってくれて、生後1週間の万里をカゴに入れ、荷物をボストンバックにつめて肩にかけ、自分で駐車場まで行き、そのまま運転して帰ったのだ。一ヶ月検診の時も、一人で運転していった。(二人目で上とあまり離れていないと、周りも関心がなくなる・・・)
 とにかく免許を取って以来、長期間運転をしなかったのは、10年前のニュージーランドの生活だけだ。約4ヶ月間ホームステイをしていたし、交通の便もいいところで、赤ちゃん連れだと行動範囲も限られる。ホストマザーも親切で、いろいろなところに連れて行ってくれたので、そこにいる限りは不便ではなかった。最後に旅行をしたときに、4,5日レンタカーを借りたが、久しぶりでも、日本と同じ左側通行で、交通量も少ないため、全然平気だった。
 今回の留学も、車を買うことは決めていた。ウーロンゴンで買った中古の車は、私がきっちり点検せずにウーロンゴンーメルボルン間を、時速120km以上も出して走りつづけ、エンジンをいためてしまった。おかげで、1番安いクラスとはいえ新車を買う羽目になり、予定外の出費だったが、そのために、長距離も心配なくドライブできるという安心感もある。今日12ヶ月点検に持っていったが、1年ちょっとで16000kmというのは、オーストラリア人の平均くらいだろうか。

 少し、タイトルから離れてしまったが、時々、子連れ留学の相談のメールの中に、「車は絶対必要でしょうか?」というのがあるので、それについての返事を書こうとしたのだ。結論から言うと、「絶対にあったほうがいい」だ。子供が小さい場合、チャイルドケアーへの送り迎えは絶対に必要だ。家から歩いていける範囲にチャイルドケアーを見つけるのはかなり難しい。こちらは、小学校に、プレップ(キンダー)と呼ばれる学年があり、日本の幼稚園の年少と同じ時に入学する。つまりチャイルドケアーに行くのは、5歳児までで、3歳児以下の空きを探すのはかなり大変だと聞く。小学校に入っても、3年生くらいまではほとんどの親が送り迎えをしている。我が家は、子供の小学校を第1条件に家を選んだので、徒歩5,6分という近いところに住んでいる。そのため、二人ともずっと自分たちで歩いていくし、うちの近所の高学年の子供たちは、皆歩いている。でも、歩いていける距離に家を探すというのも、難しいことなのだ。しかも、母親が留学でくる場合は、自分の学校までの交通手段も考えねばならず、公共交通機関と学校に近い場所となると、当然家賃も高くなる。

 では、最初に私が行ったウーロンゴン大学のように、大学のすぐ近くや、敷地内に寮やアパートがあればどうだろう。もし、近くに八百屋とかパン屋があり、公共交通の便がいいところであれば、大丈夫ではないかと思われるかもしれない。しかし、まだ大きな問題があるのだ。
 日本の小学校は、行事といえば、学校内で行うのが当然で、授業参観も、生活発表会も、運動会も学校に行けばいい。でもオーストラリアは違うのだ。もちろん学校で行事が行われることもあるが、運動会にあたるAthletic Meetやマラソン大会のCross Countryは、必ず大きな競技場のある公園に行く。学校にはプールがないので、水泳大会も、どこか50m公式プールがあるところへ行く。たいてい小学校からは歩いていけるような場所ではなく、子供たちは、学校からバスで往復し、親は車で現地にかけつける。車のない家などないという前提のようなものだ。
 その上、子供がたまたま校内の大会で上位に入り、地区大会のメンバーに入ったら、もっと大変だ。亜希も万里もマラソンは上位に入り、クロスカントリーチームに入れた。喜んだものの、そのチームに入った子供たちは、週3回学校に1番近い公園でトレーニングをすることになっていた。いつもなら8時45分ごろに出かける二人なのに、8時にその公園に連れて行かねばならない。しかも歩いたら20分以上はかかる場所なので、車で送っていかなければならない。7月末にあったAthletic Meetで、亜希だけ100m走と3段跳びの上位に入ったので、先週からまた週3回公園送りだ。

 子供たちが、お友達の家に遊びに行くときも、車で送り迎えだ。たまたま亜希の仲良しのフィービーは家がとても近いので、勝手に行き来してくれる。でも万里のお友達は、車でないと行けないところに住んでいるので、やはり親が送り迎えをしなくてはならない。
 オーストラリアの生活も残り少なくなったきたため、もうひとつ子供たちがはじめたことがある。ウーロンゴンでも、ふたりはタップダンスを習っていたのだが、メルボルンに来て、私が大学まで遠くなったこともあり、二人に習わせる日の都合もつかなかった。でもこのセッションは、授業も減ったので、行かせることにした。亜希はタップを続けたいといい、万里は自分でも向いていないと思ったのか、ホリデー中に習ったテニスを続けたいと言い出した。ということで、週2回、私はまた一人ずつ車で送り迎えをしている。これも歩いていくには、やはり30分ほどかかるところだし、まずほとんどの子供たちが送り迎えつきでやってくる。

 結局この国で車のない生活をするのは、難しいということだろう。もちろん単身であれば、公共機関だけでも生活できる。でも子連れとなると、やはり難しい。でも、日本で運転をしていなくても、オーストラリアで仕方なしに始めた人もいる。日本より交通量も少ないし、道路幅も広いので、運転はずっと楽なのだ。
 子連れ留学や子連れでオーストラリア滞在を考えている方には、やはり車は絶対必要だといいたい。ペーパードライバーの方は、こちらに来てからでも、ドライバースクールで練習することもできるし、まず国際免許を取ってくることをお勧めする。

 最後に、NSW州とVIC州の免許について、触れておきたい。といっても私は学生ビザなので、他のビザの場合は、正確な情報でないかもしれないが。
 NSW州では、Ethnic Affairs CommissionのLanguage Serviceというところで、日本の免許の翻訳証明を出してもらえば、日本の免許の有効期間中はOKだ。VIC州も同様に、領事館で翻訳証明を出してもらう。もちろんどちらも有料だ。NSWの場合、免許を取る場合、ペーパーも実技も受ける必要があるが、VICは、この翻訳証明があれば、実技は免除されるそうだ。駐在で来られている方は(その配偶者も)、領事館が推薦書のようなものを出してくれて、ペーパーも免除される。私は領事館で「子連れの留学生と、子供のいない駐在婦人のどちらが免許が必要か」と文句をつけたが、ビザの種類で決まっているから仕方がないと言われた。まあ、ペーパーだけなら、ちょっと勉強すれば大丈夫だろうから、帰国前に取ろうかなという気もしている。もし今後もオーストラリアにくるとしたら、毎回国際免許を取る手間が省ける。それにVICの免許も記念になるかな?
 

2002年08月22日

 

素敵な贈り物

 夫が2週間の滞在を終えて日本に戻る前の晩、いつものように亜希はめそめそと泣いていた。それにつられて万里も寝れないと、二人して夜遅くまで起きていたようだ。子供たちは見送りに行ったほうがつらくなるからと、朝いつもの時間に学校へ出かけていった。二人とも泣いてはいなかったが、きっと重い気持ちを引きずったまま学校で過ごしたのだと思う。
 翌日の夕方、私たちは思いがけない素敵なプレゼントを受け取った。ちょうど、私の友人がいたのだか、夕方少し遅い時間にドアのベルが鳴り、ドアを開けた亜希が叫んだ。
  「フィービーだ。」
 「じゃあ、入ってもらいなさい。ちょうどプローンクラッカーもあるし。」(実は、彼女はこれが何よりも大好きで、うちに遊びにくるのは、これが食べれることも期待しているのではないかと思うこともある)
 でも、珍しく、私の顔も見ず、すぐに帰ってしまった。亜希は、カードらしきものを手にしている。
 「ママ、手紙とお金が入ってんねんけど・・・」
 友人が帰った後で、中に入っていた手紙を読んで、私は本当にうれしくなった。それは、フィービーが私たちのことを思って書いてくれた素敵な手紙だった。

 
  友達として、私はこの便箋と封筒を、あなたたちがパパに手紙を書くためにあげようと思います。切手のお金も入れています。どうか、泣かないで。つらくて悲しくてどうしようもない気持ちなのはわかります。そんな気持ちが頭の中を駆け巡って、涙が止まらないかもしれない。
 この週末に、ぜひパパに手紙を書いてください。きっと彼も喜ぶでしょう。そうだ、もうひとつ便箋と封筒も入れておきます。それはおばあちゃん宛てです。
 あなたたちが大好きな人に手紙を書いてください。   フィービー

 私の母が1月に来たとき、彼女は遊びにきて、亜希がおばあちゃんっ子なのを知っている。先週末に、フィービーとご両親をうちに招いて食事をしたので、夫とも話をしている。きっと二人が日本に帰ったあとの亜希の様子を見て、その寂しさを和らげようとしてくれたのだと思う。

 もうひとつ夫は出発前夜に思いがけないプレゼントをいただいた。お隣には、亜希と同じ学年の男の子がいて、去年子供たちが学校に行き始めた直後に声をかけてもらい、とても親しくしている。上の男の子が日本語を学校で習っていることもあり、日本にとても興味をもっている。時々、おすしなどの日本食をおすそ分けすると、何でも喜んで食べてくれ、私たちも食事に呼んでもらったり、何かを頂いたりする。以前、トップページに写真を載せた「青い卵」は、お隣の鶏が産んだものだ。
 母の時は、チャンスがなかったからと言って、今回は、夫が来る前から食事に誘われていた。あまり日がなくて、帰る2日前の夜、本当に伝統的なオーストラリアの食事(ラムロースト&ベジタブル、アップルパイにアイスクリーム)をご馳走になり、ラムの大好きな夫は大喜びだった。話もずいぶん弾み、夫も片言の英語で、ご主人と話をしていた。
 次の夜、ベルがなり出てみると、そのご主人で、「気に入ってもらえると思う」と夫にプレゼントを手渡してくれた。開けてみると、オーストラリアのノンフィクションのペーパーバックだった。会話の中で、読書が趣味ということが話題になり、英語の本も読むと話していたためだと思う。

 私たちが、ここに住んでちょうど1年になる。ウーロンゴンでは、大学のアパートだったため、友人も大学関係者が多かった。でも今は大学とは関係のない知人友人のほうが多い。住んでいる地域も、あまり人の出入りの多い場所ではなく、アジア系の住民が少ないためか、私たちはよく顔を覚えてもらえるようで、近くの郵便局やパン屋さんは、ずいぶん前から顔なじみになっている。すっかり生活になじんだこの場所を、あと5ヶ月で離れなければならないのは、本当に哀しい。

 でも、ここに住んで得た知人友人は、私たちへの大切な宝物だ。日本に帰っても、亜希はフィービーと、万里も親友とメールを送りあうのだろう。私は、来年もう1度短期間大学に行かなくてはならない可能性が多いのだが、「うちにいればいい」と言ってくれる家族が何件かあり、とてもありがたい。大学で学んだことよりも、オーストラリアで生活して、知人友人から学んだことのほうが、私の財産になるのかもしれない。子供たちも、バイリンガルには決してなりえないようだが、ここで得たものは、一生大切な経験となり、心の中で生き続けてくれるのだと思う。

2002年08月8日

 

多民族都市に住んで
  現在、メルボルンには210以上の国籍をバックグラウンドとする人々が住んでいるそうだ。これは、1981年当時の95からすると、急激な変化であると、The Age(新聞)に載っていた。特にアフリカ諸国からの移民の伸びは大きく、この20年間に2万人以上が8つのアフリカの国から移住してきている。今日、ビクトリア州にはアフリカの40の国から3万7600人の人々が暮らしている。南アフリカからの移民は1万5500人で、1981年の2倍の数である。
 1981年のビクトリアに暮らす人々の国籍は、オーストラリア、ニュージーランドをのぞいて、上位10カ国はヨーロッパ諸国(イギリスも含めて)だった。昨年の調査では、その10位に、ベトナム、中国、インド、スリランカが入っている。
 シティの西側のあるサバーブの小学校では、子供たちの国籍は41ヶ国にもなり、英語以外の母国語は29ヶ国語に分けられる。ESL(第2言語としての英語)を学ぶ子供たちも、1980年代にはイタリアからの移民の子供たちがほとんどだったが、次第にベトナム人の数が増え、今はほかのアジア諸国、アフリカ、南アメリカ諸国と多岐にわたって全生徒数の4分の3が、移民の子供たちである。
 この記事を読んで、昨年まで子供たちが通っていたウーロンゴンの小学校を思い出した。そこは、大学に近かったので、私たちと同じ大学のアパートに住む子供たちは、全員がそこへ通っていたし、またウーロンゴンも移民の多い町だったために、半数以上が、英語を第2言語とする子供たちだった。そのために、そのような家族のための懇談会もあり、Department of Educationから講師が招かれて、セミナーが行われたこともあった。しかも、移民だけでなく、私たちのような短期滞在の子供たちも多かったので、先生方の対応も、慣れておられた。ESLのクラスも、子供に応じて必要なだけ参加することができた。
 現在子供たちが通っている学校は、多民族都市メルボルンらしくなく、外国籍の子供はうちの二人だけである。ESLクラスに出ているのも、昨年家族で移住してきたインドネシア人の兄弟だけだ。そのためESLも、二人だけか、時には、別々に個人で教えてもらえることもある。学校を見渡してみても、中国人だなと思う子は数人いるが、過半数はアングロサクソン系の顔立ちをしている。同じメルボルンの中でも、サバーブによってかなりの開きがあるようだ。
 今日、たまたまワーホリで来ている若い女性と話をする機会があった。彼女は半年ほどゴールドコーストに暮らしたが、観光客も含めて日本人がかなり多く、つい日本語に囲まれた生活をしていたようだ。もう少し日本人の少ない都市をということで、メルボルンに移ってきて3ヶ月になる。確かに日本人に出会うことは少ないけれど、だからと言って、オージーと知り合うチャンスが多いわけではなく、友人を作るのが難しいとこぼしていた。
 「ゴールドコーストの人のほうが、もっと気さくだったように思います」という彼女の言葉を聞いて、ふと思いついたのだが、多民族都市であればあるほど、外国人がいるということを意識しないためではないだろうか。2年前、初めてウーロンゴンに着いて、バスでシティに出た帰りに、バスの運転手さんに子供のバス代を質問した。見ただけで、(それに発音を聞いただけで)外国人とすぐわかるだろうに、その運転手さんは、ものすごく早口であくの強い英語で答えてくれて、まったくわからなかった。「私は外国人なんだから、ゆっくり話してよ」と心の中で思いながら、日本語で話していてもバスの中で振り返る人もいないことに、少し気楽さも感じた。
 これは、メルボルンでも同じで、公共の場で日本語で話していても、誰からも注目されない。そして私も、シティを歩きながら、いろいろな言葉が聞こえてくることを、なんとも感じなくなった。反対に日本語が聞こえてくると、びっくりして振り返ってしまうのだが。この前、シティで評判のベトナムレストランへ入ると、昼食時で込んでいて、私も一人だったために大きなテーブルで合い席となった。私の左の二人連れは、フランス語を話している。右側は、アジア系の女性もひとり入っているが、英語で話している4人のグループ。前には、中国語を話している二人。そして、店員さんは、おそらくベトナム語で話している。これが、メルボルンなんだなと感じ、回りの言葉を聞きながら(と言っても、英語以外はまったくわからない)、ベトナム春巻きを食べた。
 我が家の食卓も、いわゆるオージー料理は回数が減り、中華と和食、そしてイタリア、タイ、マレーシア、インド、韓国とさまざまな食べ物が並ぶ。子供たちが、あまり辛いものが食べれないために、中華が1番多いかもしれない。メルボルンに住んで、本当に便利だと感じるのは、世界中の食材が簡単に手に入ることだ。日本では、オイスターソース、XO醤、トウバンジャンくらいは、スーパーで買うことができたが、ここでは数え切れないほどの種類のソースやたれが安く売っている。夕食を作るのが面倒なときは、できるだけ多くの種類の野菜と、お肉をいためて、市販のソースをからめるだけで、本格的な味になる。大きなお皿にごはんをよそい、その横にいためたおかずを乗せてできあがり。
 マルチカルチャーの世界に住みだして2年あまり。私たちも、ずいぶん慣れてきたようだ。自分たちも外国人なのだから、肌の色や髪の色が違う人がいても、子供たちも何も言わない。バイリンガルキッズには程遠いが、マルチカルチャーマルチリンガルを受け入れるという点においては、十分成長したようだ。

 2002年ビクトリア在住者の国籍
  1.オーストラリア  70.6%  2.イギリス  4.4%  3.イタリア  1.9%  4.ギリシャ 1.2%  5.ベトナム  1.2%
  6.ニュージーランド 1.2%   7.中国  0.8%    8.インド  0.7%   9.ドイツ 0.6%  10.スリランカ 0.6% 
2002年06月27日

 

個人のホームページ

 最近読んだ論文の中に、個人でHPを作っている人たちの目的を、日米間で比較したものがあった。その論文は2000年のものだが、実際に資料として引用しているのは1996年で少し古いが、あまり変わっていないのではないかと思う。まず、日本のほうは、ある大手のプロバイダーを利用してHPを作っている211人の調査だが、‐霾麋信する方法(78.7%) 簡単に情報を発信できるから(67.8%) C韻砲笋蠅燭いら(67.3%) と娠を得たいから(36.5%) ッ里蕕覆た祐屬帆蠍澳愀犬鬚發討襪ら(32.2%) ξ行だから(27.5%) Ъ分のことを知ってもらいたいから(22.3%) という結果だった。 アメリカは、同様に839人から回答を得て、.瓮奪察璽犬箘娶を発表する(47.1%) ▲咼献優垢里燭瓠複苅魁ィ粥鵝法´趣味についての情報を交換するため(38.9%) ぞ霾麋信のため(33.7%) ゼ分自身の存在を確認するため(18.5%) 時代に遅れないため(16.7%) という結果が出た。
 日本語と英語では、同様のことを表すにも表現の仕方が少し違う場合もあるし、特にこの日本語のカテゴリーは、もともと日本語だったものを英語に訳してあり、それを私が日本語にしているので、ニュアンスが変わってしまっているかもしれない。でもいずれにしろ、個人のHPを作る目的は、日米間のどちらも同じ動機で「自己表現」であると言えると述べている。
 ここで、この論文の筆者が注目しているのは、日本人はアメリカ人に比べると、あまり我が強くなく、自己表現をするのも苦手だと言われているのに、なぜ日本人のHPをつくる目的が、同じく「自己表現」であるのかということだ。しかも、日本人の「自己表現」する方法として、「日記」を公開する人の多いことに驚いている。

 この調査の段階から5年以上の歳月が経過し、個人HPの数は爆発的に増えている。今、どれくらいの数の個人ホームページがあるのか、想像もつかない。でも、適当にネットサーフィンをしたり、検索をして個人のHPを除いてみると、その大部分が個人的な情報発信で、まさしく「毎日の日記」を公開している人も多い。そして無料日記のスペースを提供しているサイトも数知れない。
 その筆者が理由としてあげているひとつは、日本には昔から「日記」という文学ジャンルが完成しているということだ。平安文学の名だたるものの多くが、「日記」形式だった。しかし、イギリス文学、アメリカ文学では、「日記」は主流のジャンルになり得たことは1度もない。つまり日本人は、話すという形で自己表現をするのは苦手な人が多くても、書くという形で自己表現をするのは好きな人が多いのだと思う。
 さて、自分自身はどうかと考えてみたが、私はどちらも好きなほうだ。でも、やはり書くことは子供のころから好きだったし、日記をつけていた期間も長い。特に、一人旅をしていたときは、かなり詳細な日記をつけていた。そして、最初のHPの目的は、旅行に関する情報公開だった。そのため、タイトルが「母子で地球旅行」となっており、子連れ留学や、海外生活情報は、突然決まった今回の留学のために、出てきた結果であり、そして今はそれが中心となっている。このHPの目的を聞かれたら、第1に、日本にいる家族や知人に私たちの様子を知ってもらうためであり、そしてHPを通じて友人を増やすことだろうと思う。そして、その目的は達していると思えるので、HPを更新しつづけている。
 しかし、インターネットという巨大な情報公開の場で、私の個人情報は不特定多数に流れている。もちろんあまりにもプライバシーに関わる点は、HP上には書かず、子供も含めて第3者のことを具体的に書く場合は、本人の了解を得ている。運営上の注意としてはそれでいいだろうと考えていたが、不特定多数の読者のことも、考慮に入れなければならないことを再認識した。
 HPを公開して以来、知らない人から、留学やオーストラリアの生活に関する質問のメールを受け取るようになった。自分の経験や、またこちらで集められる情報などをもとに、すぐに返事を出すようにしてきた。ただ中には、質問内容があまりにも漠然としていたり、日本でも簡単に調べられることを尋ねてこられることもあり、うんざりさせられることもある。それと、メールをくれた方は、ずっとHPを通じて、私と連絡をとっているような錯覚に陥り、数ヶ月たってから「お久しぶりです。ところで例の件ですが・・・」というようなメールで、話が通じると思っていまうふしがある。知らない人からきたもので、返事を出したメールは削除しているので、私には誰なのか見当がつかないということがよくあるのだ。
 もう1点は掲示板の匿名性の問題だ。私の掲示板は、ほとんどが常連さんの書き込みで、時たま、初めての人が混じる程度だ。でも、たいていは簡単な自己紹介があり、どんな人かを想像することができる。自己紹介がまったくないままに、掲示板で冷静に議論をするのは難しい。しかも、私が公開している個人情報は、私の生活のすべてではない。というよりも、ほんの1部だ。その1部分だけをとりあげて、私という人間を100%理解してもらえるはずがないし、実際その必要はないと思う。HPを通じて実際に付き合いが始まった人もたくさんいるが、メールだけの場合も含めて、もっと多くのものを共有し、しっかりとした人間関係を作っていこうとしている。
 見知らぬ人でも、同じ土俵の上での議論は面白いと思う。人間は一人一人違っているのだから、同じ事柄についても、違った意見をもつのは当然だ。ただ、私は、自分の思ったことを書いても、それを人に押し付けているつもりはない。だから私の考え方を疑問に感じたり、嫌悪感を感じるのであれば、このHPを見なければすむことだと思う。これは、個人のHPなら、誰にでも当てはまることではないだろうか。私も毎日訪れるHPが何ヶ所もあるが、それはそのHPやHP上での管理人さんの人柄が気に入っているからだ。
 私は自己満足のためにHPを作っている。もちろん私の流している情報が誰かの役に立てば、それはとてもうれしいことだ。でも、HPは単に趣味のひとつに過ぎず、私の1部でしかない。個人のHPはそれから収入を得ているのでなければ、情報についての責任も追及される必要はないと思う。
 インターネット上には、ビジネスと個人の差がなく情報を収集することができるために、利用している側は、個人のサイトでさえ、ビジネスと同じ責任を要求してしまいがちなのではないだろうか。どれほどすばらしい内容で、膨大な情報量のHPであっても、それが個人で作っておられるものなら、読者としては、必要な情報をそこから得て、有益であれば感謝し、もし役に立たなくとも、それは仕方のないことだと納得するべきであると思う。

 参考文献
 Sugimoto, T. & Levin, J.A. (2000).
    Multiple literacies and multimedia: A comparison of Japanese and American uses of the Internet.
    In G.E. Hawisher & C.L. Selfe (eds). Global Literacies and the World-Wide Web. London: Routledge.133-153

2002年05月12日

 

友人から学ぶこと

 ついに長い長い夏休みが終わった。この休暇は、いろいろなところへ出かけ、いろいろな人に出会った貴重な期間だった。12月は、メールやHPを通じて連絡を取り合っていたメルボルン在住の人たちと、食事をしたり、いっしょに出かけて楽しんだ。またシドニーから昨年のクラスメートが来て、いっしょに年を越した。1月は、懐かしいNSWへ旅行にでかけ、昨年ウーロンゴン時代に出会った友人たちと、再会を楽しんだ。2月は、セッションが始まる前にと、多くの友人を食事に招いて楽しんだ。そして最後の2週間は、ウーロンゴン大学のクラスメートで、今もクラスメートである中国人の親友が、我が家に居候していたため、毎晩いろいろなことを語り合い、子どもたちも宿題を見てもらったりと大喜びだった。
 私が今ここで親しくしている人たちは、その親友も含めて私より若い人がほとんどだ。でも話をしていて楽しいし、学ぶこともたくさんある。その人たちは、一生懸命に自分の道を自分の力で歩いている人だからだ
。実は、最近あまりうれしくない出会いがあり、その人と過ごしてしまった時間が、大切な時間の無駄遣いをしたと後悔していた。たまたま価値観の全く異なった人だったらしく、話も面白くなく、しかも矛盾が多い。最後にはどこまで本当のことを話しているのかわからなくなり、理解もできなかった。私はそんな人と付き合った経験がなかったため、少し人間不信になりそうだったが、回りの友人から学ぶことで、新たな喜びを見つけてうれしくなっている。

  メールをやり取りするだけで、まだ合ったことのない友人が教えてくれた一節。
 「良いも悪いもない その時にそれがそれぞれに必要だった・・・」
 「私の人生」という私のシナリオの中で悪役に徹してくれてる人がいる。ほんとにゴメンね・・・ 心からありがとう」 この本は「あったかいね あべまりあ作」でした。

 私がメールに、「友人になるのに、付随物(たとえば、仕事、学歴、お金)なんて、ぜんぜん関係がないんだって、実感しました。もちろん、知性や教養はあったほうがいいけど。」と書くと、「加えて年齢、そしてこっちに来て加わった人種かな?オーストラリアに来なかったらこんなに友人の幅は広がらなかったと思うと、とても感深いです。」と返事をくれた友人。

 私がおしゃべりして夕方遅くまでお邪魔したのに、「朝から夕方まで一日中拘束してしまい本当にごめんなさい。あきちゃん、まりちゃんに悪かったなぁと反省しています。」と子供への気遣いを最初にメールで書いてくれる友人。

 「価値のない人のことを気に病むことこそ、時間の無駄使いだ。」と手厳しく諭してくれた友人。

 今、子供以外の家族と離れて暮らしているからこそ、回りにいる友人たちに支えられて生活できるのだと思う。精神的には、日本人の友人たちに支えられ、実質的な生活面では、親しくしているオーストラリア人家族に支えられているというところだろうか。
 子供たちは、父親と離れていることで、確かにデメリットは大きいだろう。でも、ここだからこそ出会えた多くの人から、私同様に大きなものを得ていると思う。不思議なことだが、次女の万里は、直感的に人を見る目があるらしく、彼女が好きな人は、結果的に長くお付き合いできる人たちなのだ。今、彼女は、私の回りにいる友人たちが大好きだ。そして、二人は、彼女たちなりに、私の友人たちのすばらしさを表現してくれる。そうやって、子供なりに「人を見る目」を養っているのだろうと思う。
 新学期、私にとって、また新たな出会いの季節だ。マスターの学生は働いている人が多いだけに、じっくり話し合うチャンスが少ないのだが、最後の1年間で、また一生付き合えるような友人を作りたいと思う。

2002年03月04日

 

VCEその後

 2月9日の新聞「The Age」に,'Missing a uni place not the end of the world'(大学に入れなくても、この世の終わりではない)という記事が載っていた。実名、写真、VCEのスコア、希望大学、現実進学先、コメントと、いくら本人たちが納得しているとはいえ、これほど個人のプライバシーを公開していいのだろうかと思う内容だった。メルボルン大学の初等教育を目指していた女の子は、先週発表された2回目の基準点にも届かなかった。今年はとりあえずBox HillのTAFEに行き、来年そこからメルボルン大学への編入を狙う。実際、VCEのスコアが取れなくて、いったんTAFEで単位を取ってから、大学に編入するケースはかなり多いそうだ。モナッシュ大学でネットワーキングコンピューターを学びたかった男の子は、やはりSwinburne TAFEで、 インフォーメーションテクノロジーのディプロマを目指す。彼は、それほど落胆しているわけではなく、「TAFEの授業料は、大学よりずっと安く、1クラスの人数もはるかに少ない」とコメントしている。もう一人の男の子も、いったんTAFEのマーケティングコースから、大学への編入を考えていると述べている。
 実際、TAFEの授業料は、大学の半分以下である場合が多く、TAFEで1年間学んだあと、その単位を大学に認定してもらって2年次に編入すれば、卒業は同じで、しかも費用は安くなることになる。TAFEの広報担当も、これらのメリットをアピールし、また就職率がいいことも強調しているが、果たしてどうなのだろうか。

2002年02月012日

 

お金でエリート大学へのパスポートを買う!?

 確かに、日本でも子供を大学に行かせるにはかなりの費用がかかる。中高生の学習塾の月謝の平均は2万円、家庭教師だと3万円くらいになるらしい。大学受験費用も自宅からだけの場合でも20万円、遠方に宿泊をともなっていく場合は10万円が加算される。初年度納入金は、国公立80万円弱、4年間で200万円以上になる。私学だと、文系で初年度納入金が110万円、4年間で350万円、理系だと初年度納入金が140万円、4年間で450万円にもなる。(これは1999年の資料をもとにしたので、もう少し高くなっているかもしれない)
 一方、オーストラリアの大学は、ほとんどが国公立大学だが、大学ごとに授業料が違う。入学金や施設充実費のようなものがないため、授業料だけが、大学に納めるお金だ。ちなみにメルボルン大学の文系学部で年間6000ドルほど(42万円弱)。ただし、これはVCE(Victorian Certificate of Education) という統一試験で、大学の学部が要求する得点を取り、HECSという奨学金のような制度を利用できる学生のみである。
 VCEは大学やTAFEに進学するための基礎学力を養うことが目的で、その結果が入学基準の判断となる。英語関連と、文系、理系の3分野の43科目、職業訓練関連の23科目から、履修科目を選択する。1科目あたり、ユニットと呼ばれる単位を4つ取得し、2年間で最低16ユニットを履修しなければならない。それらの学校評価と州教育委員会が主催する統一試験の結果から、100段階のスコアが算出され、志望する大学の合格基準を満たしていれば、入学が許可される。
 留学をするにあたってどこの大学がよいのかと、誰もが思うだろう。オーストラリアで、どこが名門で、入りにくいとされているのか。私も、留学前にあまり知識もなく、特に学部、専攻間の比較など、どこを調べても見つからなかった。でも年末にVCEの結果が発表され、しかも大学が専攻ごとに入学基準得点を発表しているのを見て驚いた。これだとビクトリア州内の大学を、得点だけで上から下まで並べることができる。
 2月6日付のHerald Sunのトップ面は、'Rich students buy into uni courses.'というものだった。直訳すると「お金持ちの学生は、大学のコースを買って入る」になる。その記事によると、1回目のVCE入学基準発表の結果、45%の学生が希望の大学に入れないそうだ。2回目の基準でも、全志願者の1/3は、大学に行けないだろうと先週のHerald Sunは述べている。しかし、ビクトリア州は、基準点から11点以内の学生に対し、全額負担学生として入学を認めるという制度を作ると発表した。たとえば、メルボルン大学法学部は、VCEで99.3ポイント必要であり、HECSでの学費は6000ドルである。もし95ポイントしか取れていなくても、18000ドル払えば入学できる。また全額負担学生として入学しても、1年次の成績がよければ、その翌年はHECS対象の学生に変更できる制度をとる大学もある。

 この制度を取り入れようとしているのは、いわゆるエリート大学エリートコースで、ビクトリアの限られた大学だけのようだ。大学側も、たとえ2倍3倍のお金を払ってでも来る学生がいると考えているのだろう。ビクトリア州教育大臣のNelson氏は、「学生は自分の将来への道を買うわけではない。」と述べているが、今回の制度については、かなりの批判もでているようだ。日本では大金を払っての裏口入学の話題があとを断たないが、ビクトリアでは、州が公認して、裏口入学させているようにさえ思える。
 オーストラリアは日本ほど学歴社会でないと思っていたが、日本のように誰もが大学へ行くというわけではない。そのぶん早くから、将来を分別されているのかもしれない。そして大学間の差というのも、実は歴然としているのだということが、VCE関連のニュースで、まざまざと見せ付けられたように思う。

2002年02月07日

 

空港

 私は、いったいどれくらいの空港に行ったことがあるのだろう。訪れた国は20カ国を超えると思うが、飛行機以外で入国した国もあるのだから、20カ所以上かどうかは覚えていない。でも、それがどこであれ、空港はとても好きな場所だった。それは自分が旅行者として訪れるからであり、特に出発前の空港は、旅への期待感でわくわくして、飛行機のシルエットが輝いて見えたものだ。もちろんいい思い出だけではなく、ストで飛行機が飛ばず一夜を明かす羽目になったこと、リクエストチケットで空港へ乗り込み、ケンカをしながら席を手に入れたことなど、大変な思いも何度かしたが、それでも空港は特別な場所だった。
 でも今日メルボルン空港まで母を送っていき、この空港はわくわくした気持ちで見れないことを実感した。実は、私は自分でここを利用したことは1度だけで、3年前アリススプリングスからメルボルンに到着したときだけだ。冬で、もう夜遅かったために、景色もほとんど見えなかった。その時も母がいっしょで、数日後先に日本に帰る母を子供たちと一緒に見送りにきた。そのときも上の亜希はめそめそして、私も気がめいったのだ。
 7月の1時帰国の際はシドニーに着き、車でメルボルンに来た。8月に子供たちと夫を出迎えるときは、さすがにうれしくてわくわくした。でも10月にずっと親しくしてきたYukikoさんたち、11月に親友の中国人を見送ったときは、何だか空港が寂しい場所に見えて、その日1日中哀しかった。そして今日、母を見送って、ますますメルボルン空港があまり好きではなくなってしまった。シドニー空港よりも規模が小さくて、活気も少ないせいかもしれない。
 昨年、家庭の事情で短期間に何度かシドニーと関西空港を往復した友人が、「もう関空なんて、大嫌い!」と言うのを聞いて、私は信じられなかった。私にとって関空は、いつでも夢のスタート地点のような気がしたからだ。でも今はなんとなく彼女の気持ちがわかる。私が単なる旅行者に戻ったら、空港はまた輝いて見えるのだろうか。

2002年01月31日

 

サマータイム

 昔、ニュージーランドにいたとき、初めてサマータイムを経験した。朝に強い私は、1日が有効に使えていいと感じ、日本でも導入されたらいいのにと思ったが、朝早くから蒸し暑く、夏冬の日照時間の差もそれほど大きくない日本では、たった1時間早くしてもそれほど効果はないかもしれない。何度か話題になったものの、実施されないのは、日本には向いていないのだろうか。
  昨年、ウーロンゴンでのサマータイムは快適だった。夕食後に散歩に出かけても気持ちがよく、サマータイムの恩恵を感じながら生活することができた。 でもメルボルンはウーロンゴンより日照時間が長いらしく、9時半になってやっと暗くなる。 これは、子供たちの就寝時間にも影響を及ぼし、もともと宵っ張りなふたりは10時を過ぎても元気満々、夏休みになってからというもの11時をすぎても寝てくれない。 朝方人間だったはずの私も、就寝時間がどんどん遅くなり、朝も8時前まで起きれなくなってしまった。当然朝のランニングもできず、夜が遅いと子供と一緒におやつを食べて、相変わらずダイエットとは程遠い生活になってしまう。
  子どもたちの友達の中には、9時ごろに寝てしまう子もいるのに、まだ薄明るいうちにベッドに追いやられて不満を持たないのだろうか。明るいうちに夕食を食べながら、「お昼ご飯を食べてるみたい」と言っている我が家の子どもたちは、日本人らしく外が真っ暗にならないと夜とは思ってくれないようだ。

2002年01月24日


あと1年
 新年あけましておめでとうございます。   私の留学期間も、あと1年を残すのみとなりました。  昨年の元旦は、日本へ帰る子供たちを空港まで見送って、ちょっと寂しくなったものでした。  今日は、朝早く友人を送っていき、そのあとは、HPの引越し作業に追われています。  昨年はネットを通じて多くの有人ができた年でもありました。  もちろん、インターネットの普及で多くの方が同じように感じておられるでしょう。   あと1年、悔いのないようにがんばっていきたいものです。
2002年01月01日 14時02分01秒


           (クッカバラ通信2001)


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